• [夢みたあのころ なつかしの仙台]
ヒューモスの活動
夢みたあのころ なつかしの仙台

写真に詰まった 夢・未来・希望 なつかしの仙台に見る 街のドラマ

ご挨拶

昭和二十年、戦争の終結。そして混沌とした戦後の復興の中で昭和二十四年十月、株式会社宮城ホテルは旅館業として設立され、今日の姿で創立五十周年を迎えることができました。

二十一世紀にむかうその時に、社名を株式会社ヒューモスへと改め、記念の企画展として五人の写真家のご協力を得て「夢みたあのころ なつかしの仙台」展を開催いたしました。

戦後の昭和二十年代〜三十年代当時の街の風景写真を撮り続けていた四人の写真家、坂本利行さん、佐藤百二さん、中島忠一さん、菅原吉雄さん、その写真と同じアングルで現代のプロ写真家宍戸清孝さんに撮っていただき戦後と現代の変化を展示しました。

戦後の困難な時代は将来への夢を育て、現代は将来へとどんな夢を育てていこうとしているのでしょう。それぞれの思いをいま一度思い返し、未来の仙台へ夢をつないでいきたいものです。

当コンテンツは、上記の展覧会、および冊子にて掲載された写真を、インターネット上にてより多くの方にご覧頂けるよう、一部の写真を抜粋し作成したコンテンツです。

それぞれの写真へ想いを馳せながら、当時の思い出やエピソード、ご覧になった感想など皆様よりお待ち申しております。

撮影者プロフィール

伊達藩の城下町仙台は、杜の都として、美しく、静かなたたずまいをしていた。終戦も近くなったと感じられる昭和十九年十二月に応召され郷里福岡に帰り終戦は朝鮮で迎えた。仙台の街は昭和二十年七月の空襲で、がれきの荒野と化していることは天守台の森が一望できる惨状にはまったく呆然となった。私は戦前から今日まで趣味として写真を六十年近くやっているが、戦前、戦後の間もない頃の写真は、もう使用することはないと簡単な考えから大分廃棄してしまって残っている数も極めて少なくなっている。焼け野が原と化した仙台も、考え方によっては悪い面ばかりではなかった。戦前の街は道路も狭く、曲がりくねった城下町であったが、文化的な都市計画が実施され、道路の広さも数倍に拡幅され、高層ビルが林立して東北一の大都市が完成された。然りながら美しい杜の都の緑は、かなり減少しており、また折角拡幅された道路も交通機関の激増により慢性的な渋滞が続き、交通の規制、地下鉄網の拡充など数々の計画が要請される次第である

写真を撮り始めて五十余年。よくも飽きもしないでいる自分が不思議でなりません。思えば六十余年前、気象の道に入り、藤原咲平さんの雲の写真に感動しカメラを買いましたが、引き揚げ後それが出来なくなり、子供の成長記録を撮って楽しんでました。たまたま昭和三十一年に、森永乳業主催の「乳幼児表紙写真コンクール」で我が子を撮った写真が一位になったのがきっかけで、数多くの賞を貰うようになり、生涯趣味としての写真を撮り続けるようになったのです。退職までの約三十年間仙台、福島、郡山そして盛岡と転勤しましたが、そこでも地元カメラクラブに入れてもらい勉強させられると同時に、私なりに長く写真を撮り続ける心構えを身につけることにしました。「規則正しい生活をする」「出来るだけよく歩く」「写真はマイペースで」「コンテストに応募してみる」「撮影会に参加する」「他人の写真を数多く見る」ことでしたが、最近になってもう一つ「写真を楽しむ」を加えています。リラックスした気持ちで撮ることでストレスが解消されます。

今から、三十年近くも遡りますが、高校生だった私はこの駅前近くの朝刊配達をしていました。当時旧駅舎の壁にあった時計の時刻を気にしては、急いで自転車を走らせたのを今日のように思い出します。それよりも更に遡り、戦後間もない頃より、この仙台の街をいとしい眼差しで取り続けている先輩の方々がいらっしゃします。著しく変貌を遂げゆく街の姿。その一刻一刻を永遠の記憶にとどめる為にシャッターは切られていたのだと思います。私は昔と今の街の様子を比較するという私自身の企画によってこの往年の写真家の方々と同じ地点に立ちその視線を共有するという施行のときを過ごさせていただきました。又、暗室では、印画紙に浮かび上がってくる、いとしい仙台の姿に幾度も鳥肌が立つという至福の時を持つことができました。写真と云うものはその記録性の高さから歴史の証言や想いの伝達という役割をも担っていると改めて感じます。それらを捉える正視眼を実に養っていく事が写真家としての使命なのだろうと思います。